名所一覧

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大門 壇上伽藍 高野山霊宝館 高野山大師教会
女人堂 徳川家霊台 苅萱堂 奥之院

大門(だいもん)

高野山の入口にそびえ、一山の総門である大門。開創当時は現在の地より少し下った九十九折(つづらおり)谷に鳥居を建て、それを総門としていたそうです。山火事や落雷等で焼失し、現在の建物は1705年に再建されました。五間三戸(さんこ)の二階二層門で、高さは25.1メートルあります。左右には金剛力士像(仁王さま)が安置されています。この仁王像は東大寺南大門の仁王像に次ぐ我が国二番目の巨像と云われ、江戸中期に活躍した大仏師である運長と康意の作です。正面には「日々の影向(ようごう)を闕(かか)さずして、処々の遺跡を檢知す」という聯(れん)が掲げられています。この聯は、「お大師さまは毎日御廟から姿を現され、所々を巡ってはわたしたちをお救いくださっている」という意味であり、同行二人信仰を表しています。 また、大門の横手には弁天岳登山口があり、山頂には弘法大師が勧請された嶽弁才天(だけのべんざいてん)がまつられています。

※「聯」については霊宝館「よもやま記」(別ウィンドウ)をご覧ください。

壇上伽藍(だんじょうがらん)

お大師さまが高野山をご開創された折、真っ先に整備へ着手した場所です。お大師さまが実際に土を踏みしめ、密教思想に基づく塔・堂の建立に心血を注がれました。その壇上伽藍は、〈胎蔵曼荼羅〉の世界を表しているといわれています。高野山全体を金剛峯寺という寺院と見たとき、その境内地の核にあたる場所で、古来より大師入定の地である奥の院と並んで信仰の中心として大切にされてきました。以後の各諸堂の案内順番は、高野山に伝わる『両壇遶堂(りょうだんにょうどう)次第』に則っています。ご紹介順に諸堂をご参拝されますことをおすすめ致します。

  1. 中門(ちゅうもん)

    ちゅうもんの写真

    金堂の正面手前の一段低い所に、そびえる五間二階の楼門です。壇上伽藍はかつて天保14年(1843年)の大火により、西塔のみを残して、ことごとく焼き尽くされました。先代の中門もその折に失われ、今日までなかなか再建叶わずにおりましたが、高野山開創1200年を記念して170年ぶりに、この度再建されました。持国天(じこくてん)像・多聞天(たもんてん)像・広目天(こうもくてん)像・増長天(ぞうちょうてん)像の四天王がまつられています。 なお、持国天像と多聞天(毘沙門天)像は二天門であった先の中門に安置されていた像で、類焼をまぬがれてこの度保存修理が完成しました。広目天像・増長天像は現代の大仏師松本明慶師の手により新造されたものです。

    ※くわしくは霊宝館「よもやま記」(別ウィンドウ)をご覧ください。

  2. 金堂(こんどう)

    こんどうの写真

    高野山御開創当時、お大師さまの手により御社に次いで最初期に建設されたお堂で、講堂と呼ばれていました。平安時代半ばから、高野山の総本堂として重要な役割を果たしてきました。 現在の建物は7度目の再建で、昭和7年(1932年)に完成しました。梁間23.8メートル、桁行30メートル、高さ23.73メートル、入母屋造りですが、関西近代建築の父といわれる武田五一博士の手によって、耐震耐火を考慮した鉄骨鉄筋コンクリート構造で設計、建立されました。 内部の壁画は岡倉天心に師事し日本美術院の発展に貢献した木村武山(ぶざん)画伯の筆によって、「釈迦成道驚覚開示(しゃかじょうどうきょうがくかいじ)の図」や「八供養菩薩像(はっくようぼさつぞう)」が整えられました。本尊の阿閦如来(薬師如来、秘仏)は、洋彫刻の写実主義に関心をよせ、江戸時代までの木彫技術に写実主義を取り入れて、木彫を近代化することに貢献された、高村光雲仏師によって造立されました。

    ※くわしくは霊宝館「よもやま記」(別ウィンドウ)をご覧ください。

  3. 登天の松と杓子の芝(とうてんのまつとしゃくしのしば)

    とうてんのまつとしゃくしのしばの写真

    金堂の西側に位置する松の木は、〈登天の松(とうてんのまつ)〉と呼ばれています。壇上伽藍の北側に位置する明王院の僧、如法(にょほう)上人が、久安5年(1149年)にこの松より弥勒菩薩の浄土へと昇天されたそうです。ちょうどその折、斎食の用意をしていた弟子の小如法は、師匠が登天するのを見て、あわててその後を追って昇天されたそうです。その時、小如法の手には杓子が握られており、昇天の途中にこの杓子が落ちてきたそうです。当時はこの松の周辺には芝が生い茂り、そこへ杓子が墜ちてきたことから〈杓子の芝(しゃくしのしば)〉と呼ばれるようになりました。

    ※くわしくは霊宝館「よもやま記」(別ウィンドウ)をご覧ください。

  4. 六角経蔵(ろっかくきょうぞう)

    ろっかくきょうぞうの写真

    鳥羽法皇の皇后であった美福門院が、鳥羽法皇の菩提を弔うため、紺紙に金泥(きんでい)で浄写された一切経を納めるために建立された経蔵です。この紺紙金泥一切経は、美福門院がその持費として紀州荒川(現在の那賀郡桃山町付近)の庄を寄進された事に由来して、荒川経とも呼ばれるようになりました。したがって、この六角経蔵は、別名「荒川経蔵」といいます。現在の建物は昭和9年(1934年)2月に再建されました。経蔵の基壇(きだん)付近のところに把手がついており、回すことができるようになっています。この部分は回転するようにできており、一回りすれば一切経を一通り読誦した功徳が得るといわれています。この経蔵に納められた紺紙金泥一切経は、重要文化財として霊宝館に収蔵されています。

    ※くわしくは霊宝館「よもやま記」(別ウィンドウ)をご覧ください。

  5. 御社(みやしろ)

    みやしろの写真

    お大師さまが弘仁10年(819年)に山麓の天野社から地主神として勧請し、高野山の鎮守とされました。高野山開創の伝承にもあるように、高野山一帯は元々この丹生(にう)明神の神領であったと伝わります。お大師さまは密教を広めるにあたり、日本の地元の神々によってその教えが尊ばれ守られるとする思想を打ち出され、神仏習合思想の大きな原動力にもなりました。高野山においても修行者らを護り導くとされる四社明神への信仰は大変大切にされています。 社殿は三つあり、一宮は丹生明神、二宮は高野明神、三宮は総社として十二王子・百二十伴神がまつられています。 丹生、高野明神社の構造形式は春日造で、総社は三間社流見世棚造(さんげんしゃながれみせだなづくり)と呼ばれ、どちらも檜皮葺の屋根で仕上げられています。現在の社殿は文禄3年(1594年)の再建で重要文化財に指定されています。 山王院 山王院は御社の拝殿として建立された、両側面向拝付入母屋造り(りょうがわめんこうはいつきいりもやづくり)の建物で、桁行21.3メートル、梁間7.8メートルあります。山王院とは地主の神を山王(さんのう)として礼拝する場所の意味であり、現在の建物は文禄3年(1594年)に再建されたものです。このお堂では、毎年竪精(りっせい)論議や御最勝講(みさいしょうこう)などの重要行事や問答が行われ、高野山の鎮守たる明神(みょうじん)さまに神法楽(じんほうらく)として捧げられます。同様に毎月16日にも月次門徒・問講の法会が行われています。

  6. 山王院(さんのういん)

    さんのういんの写真

    山王院は御社の拝殿として建立された、両側面向拝付入母屋造り(りょうがわめんこうはいつきいりもやづくり)の建物で、桁行21.3メートル、梁間7.8メートルあります。山王院とは地主の神を山王として礼拝する場所の意味であり、現在の建物は文禄3年(1594年)に再建されたものです。このお堂では、毎年竪精(りっせい)論議や御最勝講(みさいしょうこう)などの重要行事や問答が行われます。また毎月16日には明神(みょうじん)様への御法楽として、月次門徒・問講の法会が行われています。

  7. 西塔(さいとう)

    さいとうの写真

    お大師さまの伽藍建立計画案である『御図記(ごずき)』に基づき、高野山第二世である真然大徳によって建立されました。お大師さまは、大塔と西塔を、大日如来の密教世界を具体的に表現する「法界体性塔(ほっかいたいしょうとう)」として二基一対として建立する計画をお持ちでした。しかし、諸般の事情により建設が遅れ、お大師さま入定後の仁和2年(886年)に完成に至ったものです。 西塔では、大塔の本尊が胎蔵大日如来であるのに対し、金剛界大日如来と胎蔵界四仏が奉安されています。現在の塔は、天保5年(1834年)に再建された、擬宝珠(ぎぼし)高欄付多宝塔で、高さは27.27メートルです。 ※くわしくは霊宝館「よもやま記」(別ウィンドウ)をご覧ください。 根本大塔 お大師さま、真然大徳(しんぜんだいとく)と二代を費やして816年から887年ごろに完成したと伝えられます。お大師さまは、この大塔を法界体性塔とも呼ばれ、真言密教の根本道場におけるシンボルとして建立されたので古来、根本大塔(こんぽんだいとう)と呼んでいます。多宝塔様式としては日本最初のものといわれ、本尊は胎蔵大日如来、周りには金剛界の四仏(しぶつ)が取り囲み、16本の柱には堂本印象画伯の筆による十六大菩薩(じゅうろくだいぼさつ)、四隅の壁には密教を伝えた八祖(はっそ)像が描かれ、堂内そのものが立体の曼荼羅(まんだら)として構成されています。

    ※くわしくは霊宝館「よもやま記」(別ウィンドウ)をご覧ください。

  8. 孔雀堂(くじゃくどう)

    くじゃくどうの写真

    正治元年(1199年)、東寺長者の延杲(えんごう)は、後鳥羽法王の御願によって、神泉苑(しんせんえん)にて祈雨の修法を行い、見事大願を成就されました。その功績により高野山へ建立すべき宣旨を受け、翌年の正治2年には本尊が奉安されました。昭和元年(1926年)、金堂より出火した大火によって焼失しましたが、昭和58年(1983年)には弘法大師御入定1150年御遠忌記念事業として再建されました。本尊の孔雀明王像は快慶作で重要文化財に指定され、現在は霊宝館に収められています。

    ※くわしくは霊宝館「よもやま記」(別ウィンドウ)をご覧ください。

  9. 逆差しの藤(さかさしのふじ)

    さかさしのふじの写真

    平安時代に活躍した高僧に祈親(きしん)上人という方がいらっしゃいました。この方は、非常に『法華経』を信仰していたため、持経上人とも呼ばれました。長和5年(1016年)に上人は高野山へ上られますが、当時の高野山は荒廃し、見るも無惨な世界が広がっていました。この有様を悲しんだ上人は高野山の再興を誓い、「願掛け」として藤を地面へ逆さに植えたのでした。不思議なことに、この藤はしばらくして芽生えはじめ、それとともに高野山の再興の兆しが見え始めたということです。祈親上人は高野山再興の功労者であり、弘法大師の生まれ変わりとして多くの人々から慕われました。

    ※くわしくは霊宝館「よもやま記」(別ウィンドウ)をご覧ください。

  10. 准胝堂(じゅんていどう)

    じゅんていどうの写真

    本尊の准胝観音は、弘法大師が得度の儀式を行う際の本尊として自ら造立されたと伝えられています。この准胝観音は、伽藍が建立された当時、食堂に安置せられていたと伝えられています。その後、天禄4年(973年)頃になって、この堂が建立され、移動されたということです。幾たびも焼失しましたが、現在の堂は明治16年(1883年)に再建されました。なお、このお堂では毎年7月1日に、准胝堂陀羅尼会(じゅんていどうだらにえ)と呼ばれる法会が営まれています。

    ※准胝堂陀羅尼会につきましては「年中行事」をご参照ください。

  11. 御影堂(みえどう)

    みえどうの写真

    もとは、お大師さまの持仏堂として建立されましたが、後に真如親王直筆の「弘法大師御影像」を奉安し、御影堂と名付けられました。桁行15.1メートル、梁間15.1メートルの向背付宝形(ほうぎょう)造りで、堂内外陣にはお大師さまの十大弟子像が掲げられています。このお堂は高野山で最重要の聖域であり、限られた方しか堂内に入ることは許されませんでしたが、近年になって旧暦3月21日に執行される「旧正御影供」の前夜、御逮夜法会(おたいやほうえ)の後に外陣への一般参拝が許されるようになりました。

    ※くわしくは霊宝館「よもやま記」(別ウィンドウ)をご覧ください。
    ※御逮夜法会については「年中行事」をご参照ください。

  12. 三鈷の松(さんこのまつ)

    さんこのまつの写真

    金堂と御影堂の中間に瑞垣で囲まれた松の木があります。この松の木にこのようなエピソードが残っています。弘法大師が唐より帰国される折、明州の浜より真言密教をひろめるにふさわしい場所を求めるため、日本へ向けて三鈷杵(さんこしょう)と呼ばれる法具を投げたところ、たちまち紫雲(しうん)たなびき、雲に乗って日本へ向けて飛んで行きました。後にお大師さまが高野近辺に訪れたところ、狩人から夜な夜な光を放つ松があるとのこと。早速その松へ行ってみると、そこには唐より投げた三鈷杵が引っかかっており、お大師さまはこの地こそ密教をひろめるにふさわしい土地であると決心されたそうです。その松は三鈷杵と同じく三葉の松であり、「三鈷の松」としてまつられるようになりました。現在では参詣者の方々が、縁起物として松の葉の落ち葉を持ち帰り、お守りとして大切にされています。

    ※くわしくは霊宝館「よもやま記」(別ウィンドウ)をご覧ください。

  13. 大塔(だいとう)

    だいとうの写真

    お大師さま、真然大徳(しんぜんだいとく)と二代を費やして816年から887年ごろに完成したと伝えられます。お大師さまは、この大塔を法界体性塔とも呼ばれ、真言密教の根本道場におけるシンボルとして建立されたので古来、根本大塔(こんぽんだいとう)と呼んでいます。多宝塔様式としては日本最初のものといわれ、本尊は胎蔵大日如来、周りには金剛界の四仏(しぶつ)が取り囲み、16本の柱には堂本印象画伯の筆による十六大菩薩(じゅうろくだいぼさつ)、四隅の壁には密教を伝えた八祖(はっそ)像が描かれ、堂内そのものが立体の曼荼羅(まんだら)として構成されています。

    ※くわしくは霊宝館「よもやま記」(別ウィンドウ)をご覧ください。

  14. 対面桜(たいめんざくら)

    たいめんざくらの写真

    古伝によりますと、もとは大塔の前、金堂の東辺りに桜があったそうです。平安時代の頃に大塔が落雷で焼失してしまいました。再建の折、「修造奉行」として平清盛が任命され、清盛は立派に大塔を再建されました。修造が終わり、供養のために登山された折、大塔の桜の樹のもとに一人の老僧が清盛の前に現れます。その老僧曰く、「大塔が修造されたことはめでたいことだ‐中略‐ただし、悪行を行うことがあれば、このさき子孫まで願望が叶うことはないだろう」と説き示され、二、三町ほど過ぎたところで、その姿が消え失せたそうです。清盛は「あれは大師であったか」と大いに心に思うところがあったそうです。このように、桜の樹木のもとにお大師さまが影向(ようごう)され、対面されたことから、その桜の樹を「対面桜」もしくは「影向桜(ようごうざくら)」と呼ぶようになりました。

    ※くわしくは霊宝館「よもやま記」(別ウィンドウ)をご覧ください。

  15. 大塔の鐘・高野四郎(こうやしろう)

    こうやしろうの写真

    お大師さまが鋳造を発願され、真然大徳の時代にようやく完成したと伝えられています。火災などで度々鐘楼が焼失し、三度ほど改鋳されました。現在の銅鐘は天文16年(1547年)に完成したもので、直径2.12メートルの大鐘で、日本で四番目に大きな鐘であったことから高野四郎と呼ばれるようになりました。現在でも毎日午前4時、午後1時、午後5時(春季彼岸中日より秋季彼岸中日までは午後6時)、午後9時、午後11時の5回に分けて時刻を高野山内に知らせています。

    ※くわしくは霊宝館「よもやま記」(別ウィンドウ)をご覧ください。

  16. 愛染堂(あいぜんどう)

    あいぜんどうの写真

    建武元年(1334年)、後醍醐天皇の綸命(りんめい)によって四海静平(しかいせいへい)、玉体安穏(ぎょくたいあんのん)を祈るために建立されました。本尊は愛染明王で、後醍醐天皇の御等身といわれています。昔はこのお堂で不断愛染護摩供(ふだんあいぜんごまく)や長日談義(ちょうじつだんぎ)が行われ、「新学堂」とも呼ばれました。このお堂も何度か罹災し、現在の建物は嘉永元年(1848年)に再建されたものです。

  17. 不動堂(ふどうどう)

    ふどうどうの写真

    建久8年(1197年)、鳥羽上皇の皇女である八條女院(はちじょうにょいん)内親王というお方が発願され、行勝(ぎょうしょう)上人によって建立されました。もともと一心院谷(現在の金輪塔<きんりんとう>所在地付近)に建てられていましたが、後世になって伽藍へ移築されました。現在の建物は14世紀前半に再建されたものです。お堂の四隅はすべて形が違い、四人の工匠(こうしょう)がそれぞれの随意に造ったためと伝えられています。当初は阿弥陀堂であったと推定されていますが、後に不動明王を本尊とし、八大童子(はちだいどうじ)が奉安されました。この八大童子は運慶の作として有名で、現在は霊宝館に収められています。

  18. 勧学院(かんがくいん)

    かんがくいんの写真

    北条時宗(ときむね)が高野山内の僧侶の勉学・修練のための道場として、金剛三昧院(こんごうさんまいいん)境内に建立しました。後の文保2年(1318年)に、後宇多法皇の院宣によって現在の位置に移されました。本尊には大日如来が奉安されています。

    現在でも勉学・修練の行事である勧学会(かんがくえ)が毎年行われ、一般の立ち入りが禁じられています。

  19. 蓮池(はすいけ)

    はすいけの写真

    勧学院の前に位置するこの池は蓮池と呼ばれます。昭和の頃までは美しい蓮(はす)が咲き誇っていました。この池には小さな祠(ほこら)がまつられています。明和年間のこと、干ばつが度々起こり、民衆は苦しみました。そこで明和8年(1771年)、瑞相院慈光(ずいそういんじこう)というお方が善女竜王(ぜんにょりゅうおう)像と仏舎利(ぶっしゃり)を寄進し、蓮池の中島に小さな祠を建立しておまつりしたところ、たちまちに霊験が現れたそうです。平成8年(1996年)には祠とともに橋が修復され、毎年10月17日には縁日としてお勤めが行われています。

    ※くわしくは霊宝館「よもやま記」(別ウィンドウ)をご覧ください。

  20. 大会堂(だいえどう)

    だいえどうの写真1

    鳥羽法王の皇女である五辻斎院(ごつじさいいん)内親王というお方が、父帝の追福のため建立されました。もとは別の場所に建立されていたのですが、長日不断談義(ふだんだんぎ)の学堂として壇上に移し、蓮華乗院(れんげじょういん)と称するようになりました。後にこの論議は衰退し、現在では法会執行の際の集会所的役割を担うようになりました。現在の建物は嘉永元年(1848年)に再建された五間四面のお堂

  21. 三昧堂(さんまいどう)

    さんまいどうの写真2

    済高(さいこう)座主(870年~942年)が延長7年(929年)に建立されたお堂で、もともと総持院(そうじいん)境内に存在していました。済高師はこのお堂で「理趣三昧」という儀式を執り行っていたため、三昧堂と呼ばれるようになりました。後に壇上へ移されるのですが、修造にかかわったのが西行法師だと伝えられています。三昧堂の前の桜は、西行法師手植えの桜として、西行桜と呼ばれています。伝説にはこのお堂を修造した記念に植えられたそうです。現在の建物は文化13年(1816年)の再建です。

    ※西行桜については霊宝館「よもやま記」(別ウィンドウ)をご覧ください。

  22. 東塔(とうとう)

    とうとうの写真3

    大治2年(1127年)、白河院の御願によって醍醐三宝院勝覚権僧正(だいごさんぼういんしょうかくごんのそうじょう)によって創建されました。当初は上皇等身の尊勝仏頂尊(そんしょうぶっちょうそん)が本尊として奉安され、不動明王、降三世(ごうさんぜ)明王の二体も脇侍(きょうじ)としてまつられました。天保14年(1843年)に焼失してからしばらくの間再建されず、140年たった昭和59年(1984年)にようやく再建されました。

  23. 智泉廟(ちせんびょう)

    ちせんびょうの写真

    東塔より東へ少し行くと、小さな廟がひっそりとたたずんでいます。この廟は、お大師さまの甥である智泉大徳(ちせんだいとく 789年~825年)の御廟です。幼い頃より非常に優秀で、お大師さまに随従し、後には入唐も果たされましたが、37歳の若さで入寂されてしまいます。お大師さまはこれを大いに悲しまれ、お墓を築かれたのでした。

  24. 蛇腹路(じゃばらみち)

    じゃばらみちの写真

    伽藍入り口から東塔東側付近までのびる小道を「蛇腹路」と呼びます。高野山はお大師さまが「東西に龍の臥せるがごとく」と形容され、壇上伽藍を頭として現在の蓮花院(れんげいん)までを龍が臥している形に例えたのでした。そして、ちょうどこの小道が龍のお腹付近にあたることから蛇腹路と呼ばれるようになりました。

  25. 六時の鐘(ろくじのかね)

    ろくじのかねの写真

    伽藍の入り口の高い石垣にある鐘楼は、福島正則公が父母の追福菩提を祈って、元和4年(1618年)に建立されました。福島候といえば、豊臣秀吉と柴田勝家(かついえ)との戦いで、賤ヶ岳七本槍(しずがたけしちほんやり)といわれた、豊臣家きっての勇将でした。寛永7年(1640年)に、正則の子である正利によって再鋳されましたが、その鐘銘がかなまじり文であることで有名です。現在でも午前6時より午後10時まで、偶数時に時刻を知らせています。

高野山霊宝館(こうやさんれいほうかん)

金剛峯寺をはじめ、高野山に伝えられている貴重な仏画・仏像などの文化遺産を保護管理し、一般にも公開する目的で大正10年(1921年)に開設された、博物館相当の施設です。建物は宇治平等院を模して建造され、高野山でも数少ない大正建築として登録指定文化財に指定されています。

※入館時間など詳しい情報は、高野山霊宝館サイト(別ウィンドウ)をご覧ください。

高野山大師教会(こうやさん だいし きょうかい)

高野山真言宗の布教、御詠歌、宗教舞踊等の総本部で、各種研修会や講習会が開催されています。大講堂は大正14年(1925年)、高野山開創1100年記念として建立され、本尊には弘法大師、脇仏に愛染明王と不動明王が奉安されています。

また、大講堂の奥には授戒堂があり、菩薩十善戒(日常の生活の中で実践する仏教的規範)を阿闍梨さまよりお授けいただけます。

※授戒や写経などの詳しいページは体験しようをご覧ください。

女人堂(にょにんどう)

その昔、高野山には七つの登り口があり、高野七口(こうやななくち)と呼ばれていました。明治5年(1872年)に女人禁制が解かれるまで、女性の立ち入りが厳しく制限され、そのため各登り口に女性のための参籠所が設けられ、女人堂と呼ばれました。現在の女人堂は唯一現存する建物です。

徳川家霊台(とくがわけ れいだい)

寛永20年(1643年)に三代将軍・家光によって建立されました。一重宝形造り(いちじゅうほうぎょうづくり)の建物が二つ並んでおり、向かって右が東照宮家康公霊舎(おたまや)、左が台徳院秀忠公霊舎となっています。境内の東端には三代将軍以下および御三家の尊牌堂(そんぱいどう)がありましたが、明治21年(1888年)に焼失してしまいました。

苅萱堂(かるかやどう)

苅萱道心(かるかやどうしん)と石道丸(いしどうまる)の話は、悲話として広く知られています。このお堂は苅萱道心が出家し、実の子である石道丸とともに父子を名乗ることなく仏道修行に明けくれたと伝えられています。

奥之院(おくのいん)

高野山の信仰の中心であり、弘法大師さまが御入定されている聖地です。正式には一の橋から参拝します。一の橋から御廟まで約2キロメートルの道のりには、おおよそ20万基を超える諸大名の墓石や、祈念碑、慰霊碑の数々が樹齢千年に及ぶ杉木立の中に立ち並んでいます。

  1. 燈籠堂(とうろうどう)

    燈籠堂の写真

    高野山第二世真然大徳(しんぜんだいとく)によって建立され、治安3年(1023年)に藤原道長によって、ほぼ現在に近い大きさになったと伝えられています。

    堂内には消えずの火として祈親(きしん)上人が献じた祈親燈(きしんとう)、白河上皇が献じた白河燈、祈親上人のすすめで貧しいお照が大切な黒髪を切って献じた貧女の一燈(いっとう)、昭和の時代にある宮様と首相の手によって献じられた昭和燈が燃え続け、その他たくさんの方々の願いが込められた燈籠が奉納されています。

    こちらのお堂では、ご廻向(ごえこう)やご祈祷、各種お守りの授与もさせていただいています。

    燈籠堂の開扉(かいひ)・受付情報

    <燈籠堂開扉時間>
    通常:午前6時から午後5時30分まで
    元旦:1月1日午前0時より午後2時頃まで再度開扉します。 萬燈供養会(まんどうくようえ):8月13日の萬燈供養会には午後7時から午後9時まで再度開扉します。
    萬灯会:10月1日~3日の萬灯会にも午後7時から午後9時まで再度開扉します。

    <受付時間>
    午前8時30分から午後5時30分まで。1月1日と8月13日、10月1日~3日は開扉時間中は受付けをさせていただきます。

    ご供養について

    <受付時間>
    午前8時30分から午後3時まで。予約は不要です。

    <読経供養開始時間>
    燈籠堂で読経をあげてのご供養は1日6回を予定させていただいております。
    諸行事により時間等を変更する場合もございますので、あらかじめご了承ください。

    1座目 午前9時
    2座目 午前10時20分
    3座目 午前11時30分
    4座目 午後12時40分
    5座目 午後1時40分
    6座目 午後2時40分

    なお、正月3日間は受付けをたまわりますが、新年行事の関係上、供養は4日から勤めさせていただきます。

    ご祈祷について

    <受付時間>
    午前8時30分から午後4時30分まで。予約は不要です。

    供養料、ご祈祷料について

    供養料、ご祈祷料の詳しい情報は、こちらのPDFファイルをダウンロードの上ご確認ください。
    ※ 特別護摩祈祷については要予約

    供養料、ご祈祷料について

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  2. 弘法大師御廟(こうぼうだいしごびょう)

    大師信仰の中心聖地であり、現在でも肉身をこの世にとどめ、深い禅定に入られており、わたしたちへ救いの手を差し伸べていらっしゃるという入定信仰を持つお大師さまの御廟所です。現在も参られる方々を救い続けていると信じられ、日夜多くの参拝者が絶えません。

  3. 頌徳殿(しょうとくでん)

    しょうとくでんの写真

    大正4年(1915年)、高野山開創1100年の記念事業として建立された、高野山で数少ない大正時代の建築物です。和歌山市の寺院が発起人となり、たくさんの方々のご寄付によって造営されました。桁行十間、梁行五間の平屋造りで、創建当初は檜皮葺(ひわだぶき)屋根であったそうです。現在は茶所として、参拝の方々の休憩所として開放しており、セルフサービスでお茶を召し上がることができます。開扉時間は午前8時30分から午後5時までです。