![]()
現在の宗派としての高野山真言宗
真言宗は日本の仏教宗派の中で最も多く分裂派生しています。それらは大きく分けますと弘法大師の直系的な古義真言宗と、真言宗中興の祖・覚鑁(かくばん)上人の教学を元とした新義真言宗に分けられます。更にそこから多種多様に分裂派生し、現在では主要な門派が18に大別され、「真言宗十八本山(ほんざん)」と呼ばれるようになりました。
慶応3年に徳川慶喜によって大政奉還がなされ、明治政府が樹立されますと、明治5年には教部省が設けられ、「各宗派は教導職管長1名を置き、一宗末派の取り締まりに当たるべし」という一宗(いっしゅう)一管長の制度が発令されました。これに伴い、初代管長に降魔研暢師が就任されます。翌年には金剛峯寺と東寺を古義真言宗の総本山に、智積院と長谷寺を新義真言宗の総本山とし、この四つのお寺の住職が交替で、全真言宗の管長を務めることになりました。しかしながら、古義派と新義派は対立関係を深め、明治11年には金剛峯寺と東寺で組織する「真言宗」、仁和寺、大覚寺、神護寺、広隆寺、法隆寺、薬師寺、西大寺、唐招提寺(とうしょうだいじ)が合同して「西部真言宗」、智積院と長谷寺が組織する「真言宗新義派」の三つ巴になり、三管長の対立をみるに至りました。その後、画一統一派と分離独立派に分かれて、意見の衝突が繰り返されます。そして明治29年、醍醐寺の分離独立を皮切りに、より一層の画一・分離紛議を醸しだし、ついには明治33年に、真言宗御室派(おむろは)、高野派、醍醐派、大覚寺派、新義真言宗豊山派(ぶざんは)、真言律宗の独立が認可され、六つの分立本山が誕生しました。
これに対して画一統合派の泉涌寺(せんにゅうじ)、勧修寺、随心院、東寺の四本山は単称の「真言宗」を樹立しますが、主務大臣の調停により、画一統合派と分離は和解して、明治40年に単称の真言宗を解消して真言宗東寺派、山階派、小野派、泉涌寺派の四派が分立することになりました。この四派と先の御室派、高野派、醍醐派、大覚寺派と共に八派連合制度をとって、持続するようになります。しかし、またもや意見の衝突から大正14年に連合制度を解消し、改めて高野派、御室派、大覚寺派は記安全に合同して「古義真言宗」を樹立、東寺、醍醐寺、随心院、勧修寺、泉涌寺はそれぞれ分派独立、随心院を本山とする小野派は四国の善通寺を本山として善通寺派と改称することとなりました。昭和16年には古義・新義の各派が完全統合されましたが、敗戦によって再度分裂してしまいます。
高野山真言宗は昭和21年(1946年)1月12日より4日間、全国行政各機関代表者37名が参集のもとに宗政協議会を開催し、「高野山真言宗」と改称して、現在に至るようになりました。また、統合された真言宗も宗教法人法制定にしたがい、再び分裂することとなりました。
このページは以上です。
![]()


