弘法大師の誕生と歴史
弘法大師と高野山
しかし、奉納されて以来永年が経過し、損傷が著しくなり、高野山大師教会本部にご縁の深かった鹿児島県故三浦慧水さんのご遺志によって、平成8年に見事に改修され今日に至っています。
この「弘法大師行状絵図」は、お大師さまのご生涯を描かれたもので、ご行跡や御心が判りやすく画かれています。
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1御誕生(ごたんじょう)
真魚(まお)さまは、宝亀五年(774年)六月十五日、讃岐国の屏風ガ浦(香川県善通寺市)でお生れになりました。讃岐の郡司の家系に生まれたお父さまは佐伯直田公(さえきのあたいたぎみ)、お母さまは玉依御前(たまよりごぜん)といいます。
その家は信仰心の厚い家柄でした。ある日のこと、お父さまとお母さまが、「天竺(インド)のお坊さんが紫色に輝く雲に乗って、お母さまのふところに入られる」という夢を同時にみられ、真魚さまがお生れになりました。
この真魚さまが後の空海上人(くうかいしょうにん)、弘法大師さまです。
真言宗では、このお生まれになった六月十五日を「青葉まつり」と称して、お大師さまのお誕生をお祝いしています。 -
2捨身誓願(しゃしんせいがん)
幼年期の真魚さまの遊びは、土で仏さまを作り、草や木を集めてお堂を作ったりして、仏さまを拝むことでした。七歳の時、近くの捨身ガ嶽(しゃしんが だけ)に登り「私は大きくなりましたら、世の中の困ってる人々をお救いしたい。私にその力があるならば、命をながらえさせてください」と仏さまに祈り、谷 底めがけてとびおりました。すると、どこからともなく美しい音楽とともに天女が現われ、真魚さまをしっかりとうけとめました。
真魚さまは大変喜んで一層勉強にはげまれました。
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3都での御勉強(みやこでのごべんきょう)
み仏を拝むのがお好きな真魚さまは、またお勉強もよくできました。十四歳まで讃岐で勉強されましたが、十五歳の時、都(長岡)に出て、叔父さんの儒学者阿刀大足(あとのおおたり)について文章などを学び、十八歳で大学に入られました。
しかし、大学で習う儒学を中心とする学問は、出世を目的とするものであり、世の中の困っている人を救うものではなかったので、次第に仏教に興味をも つようになりました。そして、度々奈良の石淵寺(いわぶちでら)の勤操大徳(ごんぞうだいとく)を訪れて、み仏についての尊いお話をお聞きになりました。
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4御出家(ごしゅっけ)
世のため、人のために一生を捧げようとして、み仏の道の修行を始められた真魚さまは、まもなく大学を去って、大峯山(おおみねさん)や阿波(徳島 県)の大瀧ガ嶽(たいりゅうがだけ)、あるいは土佐(高知県)の室戸崎(むろとのさき)などの霊所を求めて修行を続けられました。
そうして、ついに親戚の反対を押し切って出家することを決心、二十歳の時、和泉国(大阪府)槙尾山寺(まきのおさんじ)において勤操大徳を師として 剃髪・得度し、名を教海(きょうかい)とされたといわれています。のちに如空(にょくう)とあらため、身も心もみ仏のお弟子となられました。
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5大日経の感得(だいにちきょうのかんとく)
二十二歳の時、名を空海(くうかい)とあらためられたお大師さまは、当時の名僧高僧にみ仏の教えを聞きましたが、どうしても満足することができませんでした。そこで奈良の東大寺大仏殿にて「この空海に、最高の教えをお示しください」と祈願されました。
すると、満願の二十一日目に「大和高市郡(やまとたけちのごおり)の久米寺東塔の中に、汝の求めている教法がある」という夢のおつげにより、大日経 を発見しました。ところが、その大日経にはどうしても理解できないところがありましたが、たずねて教えをこう人は、この日本には一人もいませんでした。
そこでついにお大師さまは、唐(中国)に渡る決心をなされました。
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6入唐求法(にっとうぐほう)
唐(中国)に名僧のおられることを聞いたお大師さまは、三十一歳の延暦二十三年(804年)七月六日、留学僧として遣唐使の一行と共に、肥前(長崎県)松浦郡田浦(たのうら)から唐へ出帆されました。天台宗を開かれた最澄(さいちょう)さまも、このとき唐に渡られました。
今日とちがって船も小さく、いくたびか暴風雨にあったすえの八月十日、九死に一生をえて福州赤岸鎮(ふくしゅうせきがんちん)に漂着しました。大使 が手紙を書きましたが、唐の役人は一行をあやしんで、上陸させてくれません。そこでお大師さまは大使にかわって州の長官に手紙を書きました。長官はその文 章と書の立派なことにおどろかれ、「これはただの人ではない」と早速上陸を許されました。
その後、皇帝からの使者とともに長安(ちょうあん)の都に上られました。
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7恵果和尚に師事(けいかかしょうにしじ)
長安の都に入られたお大師さまは、青龍寺東塔院(しょうりゅうじとうとういん)の恵果和尚に会いに行かれました。
恵果和尚は、正統の真言密教を継がれた第七祖で、唐では右にならぶ者のない名僧でした。
恵果和尚はお大師さまに会われるや「我、さきより汝のくるのを知り、待つこと久し」と大層喜ばれ、ただちに灌頂壇(かんじょうだん)に入ることを勧められました。
延暦二十四年(805年)六・七・八月と三回にわたり灌頂を受法したお大師さまは、遍照金剛(へんじょうこんごう)の法号を授けられ、真言密教の第八祖となられました。
恵果和尚はお大師さまに、「真言密教の教法(みおしえ)は、すべて授けた。早く日本に帰って真言のみ法(のり)を広めよ」と遺言なされ、同年十二月十五日、大勢のお弟子にみまもられて、お亡くなりになりました。
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8五筆和尚の称号(ごひつわじょうのしょうごう)
亡くなられた恵果和尚の生涯をたたえる碑を建てることになり、弟子四千人の中から、特にお大師さまが選ばれて、その碑文を撰び、書かれました。この ことが唐全土に知れわたり、ついに皇帝のお耳に入り、以前王義之(おうぎし)の書があった宮殿の壁に書をしたためるよう、お大師さまに命ぜられました。
お大師さまは、五本の筆を両手・両足・口にはさみ、一気に五行の書を書き上げました。その文字の見事なことに深く感心された皇帝は、お大師さまに「五筆和尚」の称号をお贈りになりました。
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9御帰朝と飛行の三鈷(ごきちょうとひぎょうのさんこ)
恵果和尚について、真言密教の教法を余すところなく受けついだお大師さまは、大同元年(806年)八月、明州(みんしゅう)から日本に帰ることになりました。
お大師さまは明州の浜辺に立たれ、「私が受けついだ、教法を広めるのによい土地があったら、先に帰って示したまえ」と祈り、手にもった「三鈷」を、空中に投げあげました。
三鈷は五色の雲にのって、日本に向って飛んで行きました。
この三鈷が、高野山の御影堂(みえどう)前の松の枝に留っていたので、これを「三鈷の松」とあがめ、この時の三鈷を「飛行の三鈷」と称しています。
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10立教開宗(りっきょうかいしゅう)
真言密教の教法を日本国中に広めるために、明州から船に乗ったお大師さまは、途中何度も嵐にあって、今にも船が沈まんとした時、右手に不動明王の剣印、左手に索印を結び、口に真言を唱えて波をしずめ、大同元年(806年)十月、無事九州の博多に帰りつきました。
帰朝の御挨拶と共に、「真言密教を日本全国に広めることを、お許し願いたい」という上表文を天皇陛下におくりました。大同四年(809年)、都へ 上ったお大師さまは、翌弘仁元年(810年)、時の帝嵯峨天皇(さがてんのう)に書を奉り、「真言宗」という宗旨を開くお許しを得て、いよいよ真言密教を 日本に広め、世の中の迷える人、苦しむ人の救済と、社会の浄化におつくしくださることになりました。
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11神泉苑の雨乞い(しんぜんえんのあまごい)
天長元年(824年)二月、日本中が大日照りとなり、穀物はもとより、野山の草木もみな枯れはてて、農民は勿論のこと、人々の苦しみは大変なものでした。
この時、お大師さまは淳和天皇(じゅんなてんのう)の詔により、八人の弟子と共に、宮中の神泉苑で雨乞いの御祈祷をされました。すると、善女竜王 (ぜんにょりゅうおう)が現れ、今まで雲一つなく照り続いた大空は、たちまちに曇り、三日三晩甘露の雨を降らせたので、生物はよみがえり、草木は生色をと りもどしました。
人々は喜ばれ、お大師さまのお徳を讃え、その法力をあがめられました。
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12般若心経を講義(はんにゃしんぎょうをこうぎ)
弘仁九年(818年)の春、日本中に悪い病気が流行し、老人も若人も病気になり、国中が火の消えたように、暗い気持につつまれました。
時の帝、嵯峨天皇はとても御心配になり、お大師さまを宮中にお召しになって、御祈祷を命ぜられました。人々を救うために、天皇は般若心経一巻を金字で写経して仏前にお供えされ、心経の講釈をお大師さまに命ぜられました。
一心に、御祈祷なされると、今まではびこっていた病気はたちまちおさまり、苦しんでいた人たちは元気になって、お大師さまの御徳はいよいよ高くなりました。
この時講義なされた内容が、有名な「般若心経秘鍵(はんにゃしんぎょうひけん)」といわれています。
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13八宗論、大日如来のいわれ(はっしゅうろん、だいにちにょらいのいわれ)
弘仁四年(813年)正月、嵯峨天皇はお大師さまをはじめ、仏教各宗の高僧を宮中へ招き、仏教のお話を聞かれました。
当時の奈良の仏教では「長い間修行しないと仏様にはなれない」といってきましたが、お大師さまは「人はだれでもこの身このままで仏様になることができる(即身成仏 そくしんじょうぶつ)」と説かれました。
奈良の高僧は即身成仏の教法を信じなかったので、お大師さまは、手に印を結び、口に真言を唱え、心に大日如来を念じました。すると、たちまちそのお体からは五色の光明が輝き、頭上に五智の宝冠を頂き、金色の蓮台に坐した大日如来となられました。
今まで非難していた高僧もお大師さまを拝まれ、天皇さまの信仰もいよいよ厚くなりました。
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14綜芸種智院といろは歌(しゅげいしゅちいんといろはうた)
お大師さまの当時、貴族の学校はありましたが、一般の人たちが勉強する学校はありませんでした。お大師さまは、だれでも勉強できるように、天長五年(828年)十二月、京都に綜芸種智院という学校をお創りになられました。
また、当時学校で習う文字は、ほとんど漢字で小さい子供たちには、読み書きはむずかしかったので、お大師さまは、子供たちにもわかるやさしい言葉 で、お釈迦さまの「四句の偈(しくのげ)」を、四十八文字の仮名文字にして教えられました。有名な「いろは歌」がそれですが、お大師さまがお作りになった と長く語りつがれてきました。
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15四国八十八ヵ所の開創(しこくはちじゅうはちかしょのかいそう)
お大師さまは若い頃、阿波(徳島県)の大瀧ガ嶽や、土佐(高知県)の室戸崎で御修行されました。その因縁で四十二歳の時、阿波、土佐、伊予(愛媛 県)、讃岐(香川県)の四カ国を御遍歴になり、各地でいろいろな奇蹟、霊験をお残しになり、お寺やお堂を建立されて、四国八十八ヵ所の霊場が開かれまし た。
お大師さまの同行二人(どうぎょうににん)の御誓願を体し、御遺跡をしたって、お四国詣りをする人々が今は、年々数十万人にものぼり、悩み苦しむ人々が御利益をいただいておられます。
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16満濃の池完成の事(まんのうのいけかんせいのこと)
讃岐国(香川県)に、周囲16キロメートルに及ぶ満濃の池があり、雨の少ない讃岐では、田畑をうるおすのに大切な池でありますが、国の役人や、技師 が何千人という人を使って何度改築しても、ちょっと雨が降ったり、風が吹くと堤防が決壊するので、農民たちは困っておりました。
弘仁十二年(821年)天皇は太政官符(だじょうかんぷ)を下し、土木技術にも秀れていたお大師さまに、満濃の池改築の責任者を依頼されました。お 大師さまが讃岐へ着任されると、そのお徳をしたって多勢の人々が改築工事に加わり、僅か三ヶ月程で難工事は完成し、大風雨にも決壊しなくなりました。
今でも、この地方の人はこのお蔭を喜んでおります。
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17東寺御下賜(とうじごかし)
お大師さまは大同四年(809年)年から高雄山寺(たかおさんじ)に住まわれ、真言密教を弘められました。しかし、高雄山寺では不便なことも多く、また、狭く感じるようになりました。
お大師さまは弘仁十四年(823年)正月、嵯峨天皇から京都の東寺を給預されました。お大師さまは、この御恩に応えるため、東寺を「教王護国寺(きょうおうごこくじ)」と称して、皇室の安泰を祈願され、また真言密教の弘通に努められました。
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18応天門の額(おうてんもんのがく)
ある時、宮中諸門の額の字を書くよう命令が出されました。
お大師さまは「応天門」という字を書いて額を掲げました。かけおわって下から額をみますと、「応」という字の第一の点がぬけております。いまさら額をおろすのも大変だし、登って書くこともできず、皆困りはてました。
しかし、お大師さまは少しもあわてず、下から墨をつけた筆を投げられたところ「応」の第一点のところに命中し、立派な点が打たれたので、皆その神技に感心した、といわれています。
「弘法も筆のあやまり」という諺があります。まさか、お大師さまが文字の最初の点を忘れることは考えられませんが、「弘法は筆を選ばず」などと共に、お大師さまの書芸のすばらしさを讃えた話の一つでしょう。
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19御修法(みしほ)
お大師さまはつねづね天皇陛下の御健康と、国民一人一人が幸せになり、世の中が平和になるようにと、祈念しておられました。
このことを末永く伝えるため、正月八日から七日間、御修法という御祈祷会を修され、結願の日(けちがんのひ)には、お大師さまが親しく、天皇陛下の御玉体(ごぎょくたい)に加持香水をそそがれました。
この尊い法会は承和二年(835年)正月からはじめられ、お大師さま御入定(ごにゅうじょう)後も、毎年かかさず続けられております。
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20高野山御開創①(こうやさんごかいそう1)
お大師さまは真言密教を広める根本道場を開くために、適当な場所を求めて、各地を巡錫(じゅんしゃく)しておられました。
ある日大和国(奈良県)宇智郡(五條付近)で、白黒二匹の犬をつれた狩人に出会い「どこに、行かれる」とたずねられました。そこでお大師さまは「伽 藍を建てるのにふさわしい場所を求めて歩いています」と答えられました。すると狩人は、「ここから少し南の紀州(和歌山県)の山中に、あなたの求めている よい場所があります。この犬に案内させましょう」といって、そのまま姿がみえなくなりました。
この狩人が、今日高野山におまつりされている狩場明神(かりばみょうじん)であるといわれています。
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21高野山御開創②(こうやさんごかいそう2)
お大師さまは、白黒二匹の犬に案内されて高野山に登る途中、丹生明神(にゅうみょうじん)のお社のところまで来られました。
すると、明神さまが姿を現わされて、お大師さまをお迎えし、「今菩薩がこの山にこられたのは全く私の幸せです。南は南海、北は紀ノ川、西は応神山の谷、東は大和国(奈良県)を境とするこの土地をあなたに永久に献上します」とつげられました。
お大師さまは、この丹生明神と、さきの狩場明神の御心持に報いるために、二柱の神を高野山の地主の神様としておまつりになりました。今の伽藍のお社がそれであります。
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22高野山御開創③(こうやさんごかいそう3)
高野山に登られたお大師さまは、「山の上とは思われない広い野原があり、周囲の山々はまるで蓮の花びらのようにそびえ、これこそ真言密教を広めるのに適したところだ」とお喜びになられました。
しかも、お大師さまが唐(中国)で御勉強の後、帰国に際して、明州の浜辺から投げられた三鈷が、この高野山の松の枝にかかっていました。
お大師さまはこの場所こそ私が求めていた土地だと、早速、真言密教の根本道場に定められました。弘仁七年(816年)、朝廷に上表して、嵯峨天皇からも許可を賜り、多勢のお弟子や職人と共に、木を切り、山を拓いて、堂塔を建て、伽藍を造られました。
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23御遺告(ごゆいごう)
お大師さまは、高野山を真言密教の根本道場と定められ、約二十年の間御苦心され、高野山を中心に、全国に教法を広められ、上は天皇をはじめ、老若男女の苦しめる者、悩める者に救いの法益を施されました。
お大師さまは、早くから限りある肉身で生きるよりも、永遠の金剛定(こんごうじょう)に入って、未来永遠に迷える者、苦しめる者を救うために、御入定をお考えになり、承和元年(834年)、多勢のお弟子を集めて御諭しをされました。
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24御入定(ごにゅうじょう)
お大師さまは、六十二歳の承和二年(835年)三月二十一日、寅の刻を御入定のときと決め、のちのちのことを弟子たちにのべつくされました。御入定 の一週間前から御住房中院(ごじゅうぼうちゅういん)の一室を浄め、一切の穀物をたち、身体を香水で浄めて結跏趺坐(けっかふざ)し、手に大日如来の定印 を結び、弥勒菩薩の三昧に入られました。
御入定から五十日目に、お弟子たちはお大師さま御自身がお定めになった、奥之院の霊窟にその御定身を納められました。
お大師さまは、天長九年(832年)の万灯・万華会の願文に「虚空尽き、衆生尽き、涅槃尽きなば、我が願いも尽きん」と記されています。つまり、 「この宇宙の生きとし生けるものすべてが解脱をえて仏となり、涅槃を求めるものがいなくなったとき、私の願いは終る」との大誓願を立てられました。
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25諡号奉賛(しごうほうさん)
お大師さまが御入定されてから八十三年後の延喜十八年(918年)、寛平法皇(かんぴょうほうおう)は、醍醐天皇に「お大師さまに大師号を賜りたい」と願い出られ、さらに観賢僧正(かんげんそうじょう)も上表されましたが、勅許されませんでした。
延喜二十一年(921年)十月二十一日の夜、天皇の夢枕にお大師さまがお立ちになり、「吾が衣弊くちはてり、願わくは宸恵(しんけい)を賜らんことを請う」といわれました。すなわち、「衣が破れているので、新しい御衣をいただきたい」とおつげになったのです。
そこで、桧皮色の御衣を賜ると同時に、「弘法大師」という諡号(おくりな)を賜りました。十月二十七日、勅使少納言平維助卿(ちょくししょうなごんたいらのこれすけきょう)が登山し、御廟前(ごびょうぜん)にて、詔勅奉告(しょうちょくほうこく)の式が執行われました。
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26御衣替(おころもがえ)
観賢僧正は、「弘法大師」の諡号をいただいたのち、天皇から御下賜の御衣を奉るため、高野山に登られました。そうして、御廟前に跪いて礼拝し、弟子の淳祐(しゅんにゅう)に御衣を捧げさせて、御廟の扉を開きましたが、お大師さまの御姿を拝することができませんでした。
観賢僧正はご自分の不徳をなげき、一心に祈られました。すると、立ちこめた霧が晴れるようにお大師さまが御姿を現わされ、御衣をお取りかえ申し上げることができました。
これ以来、今日にいたるまで毎年三月二十一日、御衣替の儀式が行われております。
弘法大師略年譜
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宝亀五年(774年) 一歳この年、讃岐国多度郡(さぬきのくにたどのごおり)に生まれる。幼名真魚(まお)。父は佐伯直田公(さえきのあたいたぎみ)。母は阿刀(あと)氏。
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延暦七年(788年) 十五歳この頃、叔父阿刀大足(あとのおおたり)について、論語・孝経・史伝・文章等を学ぶ。一説にこの年長岡京に上がる。
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延暦十年(791年) 十八歳この年、大学明経科に入学し、岡田博士らについて「毛詩」「尚書」「春秋左氏伝」等を学ぶ。この頃、一人の沙門(一説に勤操 ごんぞう)から虚空蔵求聞持法(こくうぞうぐもんじのほう)を授けられ、以後阿波国大瀧ガ嶽(あわのくにたいりゅうがだけ)、土佐国室戸崎(とさのくにむろとのさき)などで勤念(ごんねん)修行をする。
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延暦十六年(797年) 二十四歳十二月一日、「聾瞽指帰(ろうこしいき)」一巻を著し、儒教・道教・仏教の優劣を論ず。のちに「三教指帰(さんごうしいき)」と改題する。
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延暦二十三年(804年) 三十一歳
四月七日、出家得度する。
五月十二日、遣唐大使藤原葛野麻呂(ふじわらのかどのまろ)と同船して難波を出帆する。
十二月二十三日、長安に到着する。
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延暦二十四年(805年) 三十二歳
二月十一日、空海、西明寺に移る。
六月~八月、青龍寺(しょうりゅうじ)東塔院灌頂(かんじょう)道場において恵和和尚(けいかかしょう)から胎蔵・金剛界・伝法阿闍梨位(でんぽうあじゃりい)の灌頂を受け、遍照金剛(へんじょうこんごう)の灌頂名を受ける。十二月十五日、恵和和尚、入寂、年六十。
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延暦二十五年(806年) 大同元年[五月改元] 三十三歳
八月、明州を出発し、帰国の途につく。
十月二十二日、高階遠成(たかしなのとおなり)に託して留学の報告書「御請来目録(ごしょうらいもくろく)」を朝廷に提出する。
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大同四年(809年) 三十六歳
七月十六日、平安京に入る許可が下がる。
八月二十四日、最澄、密教教典十二部の借覧を願う。
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弘仁元年(810年) 三十七歳十月二十七日、高雄山寺(たかおさんじ)において鎮護国家のために修法せんことを請う。
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弘仁三年(812年) 三十九歳十一月・十二月、高雄山寺において、金剛界・胎蔵結縁灌頂を最澄らに授ける。
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弘仁四年(813年) 四十歳十一月、最澄の「理趣釈経(りしゅしゃっきょう)」借覧の求めに対して、断りの答書を送る。
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弘仁六年(815年) 四十二歳四月一日、弟子康守(こうしゅ)、安行(あんぎょう)らを東国の徳一、広智(こうち)らのもとに遣わし、密教教典の書写を依頼する。
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弘仁七年(816年) 四十三歳
六月十九日、修禅の道場建立のために高野山の下賜を請う。
七月、高野山の地を賜う。
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弘仁九年(818年) 四十五歳一説に、悪疫流行により、「般若心経秘鍵(はんにゃしんぎょうひけん)」を表す。
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弘仁十一年(820年) 四十七歳十月二十日、伝灯大法師位(でんとうだいほっしい)に叙せられ、内供奉十禅師(ないぐぶじゅうぜんし)に任ぜられる。
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弘仁十二年(821年) 四十八歳五月二十七日、讃岐国満濃池(まんのういけ)の修築別当(しゅうちくべっとう)に任ぜられる。
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弘仁十三年(822年) 四十九歳二月十一日、東大寺に灌頂道場(真言院)を建立すべき勅が下がる。
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弘仁十四年(823年) 五十歳一月十九日、一説に、東寺を給預される。
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天長元年(824年) 五十一歳
三月二十六日、少僧都(しょうそうず)に任ぜられる。
六月十六日、造東寺別当(ぞうとうじべっとう)に任ぜられる。
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天長二年(825年) 五十二歳四月二十日、東寺講堂の建立に着手する。
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天長四年(827年) 五十四歳
五月二十六日、内裏において祈雨法(きうほう)を修する。
五月二十八日、大僧都(だいそうず)に任ぜられる。
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天長五年(828年) 五十五歳十二月十五日、庶民のために綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)を創立する。
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天長七年(830年) 五十七歳この年、諸宗に宗義の大綱を提出させる。「秘密曼荼羅十住心論(ひみつまんだらじゅうじゅうしんろん)」十巻、「秘蔵宝鑰(ひぞうほうやく)」三巻を先述する。
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天長九年(832年) 五十九歳八月二十二日、高野山において、万灯万華会(まんどうまんげえ)を修する。
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承和元年(834年) 六十一歳十二月二十九日、御七日御修法(ごしちにちみしほ)の勅許下る。
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承和二年(835年) 六十二歳
一月二十二日、真言宗に年分度(ねんぶんどしゃ)者三人を賜う。
二月三十日、金剛峯寺が定額寺(じょうがくじ)となる。
三月二十一日、高野山においてご入定(にゅうじょう)、年六十二、臈(ろう)三十一。
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延喜二十一年(921年) 六十二歳十月二十七日、観賢(かんげん)の奏請により、弘法大師の諡号(しごう)を賜う。