日本各地の大師信仰

日本各地の大師信仰

さまざまな大師信仰

入定信仰(にゅうじょうしんこう)

921年、醍醐天皇はお大師さまに「弘法大師」の諡号(しごう)を贈られました。この時、東寺長者の観賢(かんげん)はその報告のため高野山へ登られました。奥之院の廟窟を開かれたところ、禅定に入ったままのお大師さまに出会われ、その姿は普段と変わりなく生き生きとされていたと伝えられています。この伝説からお大師さまは、今も奥之院に生き続け、世の中の平和と人々の幸福を願っているという入定信仰が生まれました。この入定信仰は、1023年に藤原道長(ふじわらみちなが)が高野山に登山してから急速に広がったとされています。その情景を「有りがたや、高野の山の岩蔭に大師はいまだ在(おわ)しますなる」と詠んだ歌が今も伝えられています。
なお、高野山では毎月21日にお大師さまの御廟へ参拝する「廟参日」として、報恩の法会・儀式はもちろんのこと、たくさんの方々が御廟前へお参りされます。

遍路巡拝と同行二人(どうぎょうににん)

四国各地の、お大師さまの旧蹟を尋ねて、遍路修行を行うことです。昔は、お寺に札所番号はなく、大師ゆかりの史跡を巡り、木札や金のお札をお寺の建物に打ちつけて、お参りの証にしていたそうです。したがって現在でも、札所を巡ることを「打つ」と呼ばれる方もいます。近世になって、八十八ケ所の番号と札所が固定しました。全行程約1,450キロメートル、徳島県を発心の地、高知県を修行の地、愛媛県を菩提の地、香川県を涅槃(ねはん)の地として、四国を一周する遍路巡拝は、一人で巡拝するのであっても、お大師さまと共に心身をみがき、いつもお大師さまと共にあるという「同行二人」の精神が培われました。そのありさまは「あなうれし、行くも帰るもとどまるも、我は大師と二人連れなり」と詠われています。

四国遍路のはじまりは、愛媛県荏原の郷に住む衛門三郎という人物であると伝えられています。衛門三郎は大変裕福な長者でしたが、非常に強欲非道な人物として有名でした。そこへ一人の薄汚れた修行僧が喜捨を乞いにやって来ました。誰であろう、その人はお大師さまでした。ところが、再三喜捨を乞いに訪れたお大師さまを、口汚くののしり、しまいにはお持ちになっていた鉄鉢(てっぱつ)を取り上げて、叩き割ってしまいました。それ以降、その修行僧はぷっつりと姿を見せなくなりました。しかし、しばらくたちますと衛門三郎の8人の子供たちが次々に不幸に襲われ、亡くなってしまいます。そして、「この前、喜捨を乞うた修行僧は四国を巡って修行している空海(くうかい)さまではないか」とのお話を耳にします。その時、衛門三郎は「自分自身が強欲非道で喜捨をしようとせず、さらには空海さまの鉄鉢を叩き割ってしまった。子供たちが不幸にあったのも、自分の犯した罪への天罰にちがいない」と悟ったのでした。そして、お大師さまにお会いしてお詫びをするため、財産を様々な人達へ喜捨し、自らはお大師さまの後を慕って、四国を巡拝したというのが始まりなのだそうです。

九度山町石道(くどやまちょういしみち)

古くから高野山へ向かう道は幾本もありました。それらの道は山に近付くにつれて合流し、七つの道に集約されていきました。これを高野(こうや)七口と呼んでいます。この七口のうち、九度山の慈尊院から山上の大門へ通じる参道を「町石道(ちょういしみち)」といい、お大師さまが高野山を開創された折、木製の卒塔婆を建てて道標とした道とされています。また、慈尊院にはお大師さまの御母公がお住みになっており、御母公へ会うために月に9回はこの道を通って下山しておられたことから、慈尊院周辺地域の地名が「九度山」となったともいわれています。

時代が経つにつれ木製の塔婆の損壊は激しくなり、鎌倉時代に高野山遍照光院の第九阿闍梨、覚きょう僧正(かくきょうそうじょう)が再建を訴え、後嵯峨上皇や北条時宗(ときむね)などの権力者による援助を受けて、朽ちはてた木にかわって石造りの五輪塔婆形(ごりんとうばがた)の町石が一町(約109メートル)ごとに建てられるようになりました。この町石は根本大塔を起点として慈尊院まで180町石が建立されて胎蔵界曼荼羅の百八十尊を表し、更に大塔から奥之院まで36町石が建立されて金剛界曼荼羅三十七尊として両界曼荼羅の世界を象徴し、さらに36町ごとに里石(4本)も建てられ、約20年の歳月をかけて完成されたと伝わっています。また、各時代の天皇、上皇さまの御行幸をはじめ、多くの信者さまが一町ごとに合掌しながら登山され、信仰の道として親しまれました。