密教芸術
1200年の「かたち」と「ひびき」
声明
声明とは、一般に僧侶がお経に旋律をつけて唱えるもので、密教儀礼の中で用いられる声楽の名称です。
ナーガールジュナ(龍樹:真言密教の第三祖)は、仏典を求める旅の途中、インドの南方、とある鉄塔の扉の隙間から流れ出て、あたりに響きわたる旋律を耳にします。ナーガールジュナは、この旋律が宇宙に貫かれる普遍の真理、密教の響きであることを知ります。これを「讃」とよび、その教えを得ることの悦楽を表現しました。「讃」は、現代声明の中でもっともポピュラーな曲目として唱えられています。
古代、インドでは「五明」と呼ばれる五つの学問があり、それぞれ「工巧明」は理学、「医方明」は医学、「因明」は論理学、「内明」は哲学、そして「声明」は音韻学を指しています。古代インドの声明はCabdra(音声) Vidya(明あるいは智)といい、発音や発声を中心とした学問でしたが、現在のような声楽としての声明が存在したことも古く経典の中にみることができます。
インドで生まれた声明は、仏教の伝播に伴い中国、日本へと伝えられます。インドでつくられたものを梵讃と呼び、古代インドの言語、サンスクリットで書かれたものを中国語に音写したもので、そのままでは意味を理解することはできない。一方、のちに中国でつくられたもの、漢訳されたものを漢讃と呼んでいます。
声明は高度に体系化された声楽である。声明には音階や表現技法、楽譜までもが存在し、それぞれ細かくルールが決められています。
声明には5つの音階があり、西洋音楽のドレミのようにそれぞれ「宮」、「商」、「角」、「徴」、「羽」と名称があります。この5音を単位に「初重」、「二重」 、「三重」とオクターブをあらわす段階が3段階あり、全部で15音から成っています。現在は、人が発声できないとされる低音部の3音、高音部の1音をのぞき、11音が使われています。
「ろれつ」という言葉の語源でもある「呂(りょ)」と「律(りつ)」という基準が15音、それぞれの音の間の昇降を一定に保つルールがあります。
声明には、唱える際に旋律を豊かにする様々な表現技法が用いられます。それを「ユリ」、「イロ」、「ソリ」、「アタリ」、「打付」・・・。これらは声明の唱える際に用いる表現技法の名称の一部である。細かく喉を動かして音を揺らすもの、ゆっくりと音階を変化させるもの、音をきっぱりと断つもの。その表現のディティールは複雑で精緻なものです。
声明は寺院の堂内で僧侶によって唱えられるものでありながら、その表現技法は優雅で荘厳な旋律、端正で毅然としたリズム感、歓喜や悲哀のような感情までをも演出することができます。法会の目的に応じて悦びをあらわしたり、静かに偲んだりする曲目が唱えられます。
声明には、楽譜が存在します。音階と表現技法を図示したもので、これを「博士(はかせ)」と呼びます。この博士のルールに則って、声明の唱え方について一定の統一が図られています。
一方で、声明には習得する際に非常に重要な特製があります。それは口訣(口伝)とよばれます。博士(楽譜)に書かれていない表現上のルールも存在しているのです。これらのルールは、師匠から弟子へと口伝えのみによって伝承されてきました。真言密教では、声明に限らず、様々な伝授の場面において「面授」とよばれる、師匠と弟子の対面による伝達が重んじられています。
声明は、儀式の中心となる僧侶が道場において仏と対峙するとき、その道場(空間)を美しい旋律で装飾し、密教の教えを受ける歓喜を表現する音楽と言えます。声明は高度に体系化された音楽的要素と密教伝承の奥義を踏まえ、空海による招来から1200年後の今日も受け継がれる、真言僧侶の重要な修行の一環であり、広く一般の人々にも密教の深淵で豊潤な世界観を伝える、メディアの一つとも言えるのではないでしょうか。
金剛峯寺では法会以外に、さまざまな催事で皆様に声明を披露する場を持っております。
是非、“生”で祈りの旋律を体感していただきたいと思います。
霊宝館
霊宝館は1200年に及ぶ高野山の歴史の中で製作された国宝21件をはじめとする5万点にも及ぶ文化財を収蔵する密教美術の大宝蔵となっています。収められている仏像や絵画、書跡はその一つ一つが信仰や祈りの「造形」として、当時の人々の思いを現代に伝えています。
大正10年(1921年)、霊宝館は高野山に存在する117の寺院が保有する文化財を保存、管理する機関として開設されました。
その一方で、近年ではそれらの文化財の展示や公開を通して広く高野山の魅力を発信する役割も担っています。
収蔵される文化財の持つ宗教的、歴史的な価値は疑いの余地がありません。それに加えて、その造形は美術品、いわゆる「アート」として世界中の人々との非言語コミュニケーションにおいて大きな可能性を持ちます。
高野山は平成16年(2004年)に「紀伊山地の霊場と参詣道」としてユネスコ世界文化遺産に登録され、世界中から多くの人々が訪れます。
高野山が有する類い希な密教文化は世界共通の財産として、宗教や国、言語の壁をこえて、世界的な注目を集めています。
霊宝館に納められる文化財は、それぞれが高野山1200年の歴史のストーリーテラーとして、来訪する人々を絢爛壮麗な密教文化の世界へと誘います。