金剛峯寺とは

高野山真言宗総本山を紐解く

高野山は、平安時代のはじめに弘法大師によって、開かれた日本仏教の聖地です。
「金剛峯寺」という名称は、お大師さまが『金剛峯楼閣一切瑜伽瑜祇経(こんごうぶろうかくいっさいゆがゆぎきょう)』というお経より名付けられたと伝えられています。
東西60m、南北約70mの主殿(本坊)をはじめとした様々な建物を備え境内総坪数48,295坪の広大さと優雅さを有しています。

高野山開創の物語

高野尋入事 「高野大師行状図」

弘法大師が都遥かに都を離れ、しかも約1000mの高峰であるこの高野山を発見されたことには古くから伝えられる物語があります。
それは、弘法大師が2カ年の入唐留学を終え、唐の明州の浜より帰国の途につかれようとしていた時、伽藍建立の地を示し給えと念じ、持っていた三鈷(さんこ)を投げられた。
その三鈷は空中を飛行して現在の壇上伽藍の建つ壇上に落ちていたという。

弘法大師はこの三鈷を求め、今の大和の宇智郡に入られた時そこで異様な姿をした一人の猟師にあった。

手に弓と矢を持ち黒と白の二匹の犬を連れていた。弘法大師はその犬に導かれ、紀の川を渡り嶮しい山中に入ると、そこでまた一人の女性に出会い「わたしはこの山の主です。あなたに協力致しましょう」と語られ、さらに山中深くに進んでいくと、そこに忽然と幽邃な大地があった。

そして、そこの1本の松の木に明州の浜から投げた三鈷がかかっているのを見つけこの地こそ真言密教にふさわしい地であると判断しこの山を開くことを決意されました。

一山境内地とは

一山境内地とは

総本山金剛峯寺という場合、金剛峯寺だけではなく高野山全体を指します。
普通、お寺といえば一つの建造物を思い浮かべ、その敷地内を境内といいますが、高野山は「一山境内地」と称し、高野山の至る所がお寺の境内地であり、高野山全体がお寺なのです。

「では、本堂はどこ?」という疑問がわいてくるでしょう。高野山の本堂は、大伽藍にそびえる「金堂」が一山の総本堂になります。高野山の重要行事のほとんどは、この金堂にて執り行われます。
山内に点在するお寺は、塔頭寺院(たっちゅうじいん)といいます。お大師さまの徳を慕い、高野山全体を大寺(だいじ 総本山金剛峯寺)に見立て、山内に建てられた子院のことです。現在では117ヶ寺が存在し、そのうち51ヶ寺は宿坊として、高野山を訪れる参詣者へ宿を提供しています。

弘法大師(こうぼうだいし)

921年に醍醐天皇により、空海の偉業に対しおくられたおくりな。

真然大徳(しんぜんだいとく)

延歴23年(804)讃岐国に御誕生。弘法大師御入定(承和2年3月21日)後、30歳の若さでその遺告を受け継ぎ五十有余年の歳月をかけて瑜祇塔、弥勒堂、真言堂、准胝堂、鐘楼の諸堂、また、弘法大師の悲願でもあった根本大塔や西塔を完成された。

三鈷(さんこ)

密教における法具で、三鈷杵(さんこしょう)ともいう。
仏の教えが煩悩を滅ぼして、悟りを求める心を表す様をインド神話上の武器に例えて法具としたものである。

座主

萬日大師

管 長 猊 下 御 経 歴

総本山金剛峯寺第415世座主

高野山真言宗管長 大僧正
長谷部 真道(はせべ しんどう)

長谷部座主猊下
  • 一、出 生
    昭和13年12月1日
  • 一、得 度
    大乘寺道場に於いて日下 義禅師に従い昭和22年04月27日剃髪
  • 一、度 牒
    昭和38年07月02日
  • 一、学 歴
    昭和38年03月 学習院大学 法学部卒業
    昭和39年03月 高野山専修学院卒業
  • 一、住職歴
    昭和42年3月23日 但馬宗務支所22番 大乘寺住職就任
    (現在に至る)
  • 一、宗内歴
    高野山真言宗総務部長、総本山金剛峯寺執行
    総本山金剛峯寺内事長、開創千二百年記念大法会団参地方本部長
    第六地域伝道団団長等を歴任

歴代座主一覧