年表
年号(西暦) | 出来事 |
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弘仁七年(816年) | 六月十九日 弘法大師、高野山の下賜を請う 七月八日 高野山開創の勅許を賜る |
弘仁九年(818年) | 弘法大師、勅許後始めて高野山に登る |
弘仁十年(819年) | 弘法大師、高野山上七里四方に結界を結び、伽藍建立に着手し、はじめに明神社を建立する |
承和二年(835年) | 三月二十一日 弘法大師、高野山奥之院にご入定 |
元慶七年(883年) | 真然が陽成天皇に高野山参詣による罪障消滅と弥勒の救済の功徳を説きすすめる |
昌泰三年(900年) | 宇多法皇、高野山参詣 |
延喜十九年(919年) | 観賢、東寺と金剛峯寺座主を兼務する |
延喜二十一年(921年) | 弘法大師号を賜る |
正歴五年(994年) | 落雷による火災で諸堂塔が焼失、以後衰退する |
長和五年(1016年) | 祈親上人定誉、高野山復興に着手 |
治安三年(1023年) | 仁海の勧誘により藤原道長登山して再興する |
万寿三年(1026年) | 藤原道長の娘の上東門院の納髪が行われる |
寛治二年(1088年) | 白河上皇登山し、大塔再建の宣旨を下す |
康和五年(1103年) | 大塔落慶 |
永久二年(1114年) | 覚鑁上人(高野山教学中興の祖)高野山に登り約8年間修行する |
大治五年(1130年) | 覚鑁上人伝法院を建立 |
長承元年(1132年) | 大伝法院落慶 |
長承三年(1134年) | 覚鑁上人院宣により伝法院と金剛峯寺の座主を兼職 |
長承四年(1135年) | 覚鑁上人、両座主職を自ら辞す |
保延六年(1140年) | 覚鑁上人、高野山から追われ700余人の僧侶を連れ根来に移る |
康治二年(1143年) | 覚鑁上人(興教大師)入寂 |
久安五年(1149年) | 大塔に落雷、御影堂を除き全焼 |
久安六年(1150年) | 金堂落慶 |
保元元年(1156年) | 平清盛が大塔再建に尽力する |
文治元年(1185年) | 明遍(後の高野聖の一流派の祖)奥之院で弘法大師の御影を拝す |
文治二年(1186年) | この頃から平家の落武者や、没落した貴族が高野山に逃れてくる この頃から高野聖らの唱導によって高野山への納骨が始まる |
建久三年(1192年) | この頃、法然上人・日蓮上人 高野山で修行する |
建久九年(1198年) | 行勝上人、一心谷に不動堂(現存)を建立 |
貞応二年(1223年) | 北条政子が、金剛三昧院に多宝塔(現存・国宝)を寄進する |
建長五年(1253年) | 高野版の出版が始まる |
文永二年~弘安八年 (1265年~1285年) |
高野山麓慈尊院から山上まで町石が建てられる |
明徳三年(1392年) | 足利義満が2度登山する |
応永十三年(1406年) | 二者対立して論議の勝敗をあらそう竪精論議始まる |
大永元年(1521年) | 伽藍諸堂、焼失する |
天正九年(1581年) | 織田信長、高野攻め |
天正十三年(1585年) | 豊臣秀吉高野山を焼き討ちしようとするが、応其上人の働きで中止される 高野山の寺領が解放される |
天正十八年(1590年) | 秀吉、興山寺建立 |
天正二十年(1593年) | 青厳寺建立 |
寛永七年(1630年) | 伽藍諸堂、焼失する |
元禄(1688年~1704年) | この頃から参詣人の増加に伴い僧侶以外の職人や町人が多く常住するようになる |
宝永二年(1705年) | 現在の大門が出来る |
天保十四年(1843年) | 落雷による大火で伽藍全焼する |
弘化四年(1847年) | 現在の御影堂が紀州徳川家を檀主として再建される |
明治二年(1869年) | 青厳寺・興山寺を合併し金剛峯寺と改める |
明治四年(1871年) | 高野山の寺領を国へ返す |
明治五年(1872年) | 高野山の女人禁制とかれる |
明治二十四年(1891年) | 高野山内の子院六百数十ヶ寺を統廃合し、百三十ヶ寺に |
明治三十三年(1900年) | 高野山大師教会発足 |
明治三十八年(1905年) | 女人の入住が公式に認められる |
昭和元年(1926年) | 金堂全焼する |
昭和四年(1929年) | 電車が極楽橋まで開通 |
昭和五年(1930年) | ケーブルカーが開通 |
昭和七年(1932年) | 金堂落慶 |
昭和十二年(1937年) | 大塔落慶 |
昭和二十一年(1946年) | 高野山真言宗設立 金剛峯寺を総本山とする |