寺内のみどころ

寺内のご案内

正門(せいもん)

正門せいもん

金剛峯寺前駐車場より境内に入って来るとき、最初にくぐられる門を正門といい、金剛峯寺の建物の中で一番古く、文禄2年(1593年)に再建されて以来、今日まで建っています。
右のほうを見ますと小さな入り口があります。このくぐり戸は一般の僧侶がもっぱら使用しています。昔はこの門を正面から出入りできるのは天皇・皇族、高野山の重職だけでした。一般参拝の方はあまり関係のない話ですが、高野山では門の出入り一つでも、厳しいルールが存在したのです。

天水桶(てんすいおけ)

天水桶てんすいおけ

金剛峯寺の屋根は檜の皮を何枚も重ねた檜皮葺(ひわだぶき)になっています。その屋根の上に、桶が置かれています。これを天水桶といいます。
これは普段から雨水を溜めておき、火災が発生したときに、火の粉が飛んで屋根が燃えあがらないように桶の水をまいて湿らし、少しでも類焼を食い止める役割を果たしました。

経蔵(きょうぞう)

経蔵きょうぞう

門をくぐって左手に見えますのは経蔵で、延宝7年(1679年)3月、大阪天満の伊川屋から釈迦三尊と併せて寄進されたものです。経蔵は重要なものを収蔵するところなので、火災が発生しても安全なように主殿(しゅでん)とは別に建てられました。

鐘楼(しょうろう)

鐘楼しょうろう

門をくぐって右手に見えます鐘楼は、金剛峯寺の前身であります青巌寺の鐘楼です。その構造形式から万延元年(1860年)に大火(たいか)で類焼後、大主殿などの建物と共に鐘楼も元治元年(1864年)に再建されたものと考えられます。
桁行・三間、梁行・二間、袴腰付入母屋造り(はかまごしつきいりもやづくり)の形式で、県指定文化財となっています。

  • 大玄関(だいげんかん)
    大玄関
  • 小玄関(こげんかん)
    小玄関

大玄関と小玄関だいげんかんとこげんかん

鐘楼を見て振り返りますと、囲いがされた入り口が見えます。ここは金剛峯寺の表玄関にあたるところで大玄関といいます。この門も、先の正門と同じく天皇・皇族や高野山重職だけが出入りされました。
大玄関をさらに通り過ぎますと、もう一つ玄関があります。これは小玄関と呼ばれ、高野山では上綱(じょうこう)職の方々がもっぱら使用されます。一般の僧侶はといいますと、昔は裏口より出入りましたが、現在は一般参詣入口を利用しています。

間と持仏間(おひろまとじぶつま)

大広間と持仏間おおひろまとじぶつま

大広間は重要な儀式・法要が執り行われる処で、2月の常楽会(じょうらくえ 涅槃会)や4月の仏生会(花祭り)等がここで行われています。襖には群鶴(ぐんかく)の絵、松の絵が描かれ、狩野法眼元信(かのうほうげんもとのぶ 1476年~1559年)の筆と伝えられています。
正面奥の持仏間は、ちょうど皆さまのご家庭の仏間にあたいします。本尊にお大師さまを奉安し、両側には歴代天皇御尊儀のお位牌や歴代座主のお位牌をおまつりしています。

梅の間(うめのま)

梅の間うめのま

襖の絵は梅月流水(ばいげつりゅうすい)で、筆者は狩野探幽斎守信(かのうたんゆうさいもりのぶ 1602年~1674年)であると伝えられています。描かれている絵図から梅の間と呼ばれています。

柳の間(やなぎのま)

柳の間やなぎのま

山本探斉(やまもとたんさい)による柳鷺図(りゅうろず)が描かれていることから柳の間と呼ばれています。この座敷は、文禄4年(1595年)に豊臣秀次(ひでつぐ 二代目関白)が自害したことから「秀次自刃(じじん)の間」ともいわれています。
※秀次と高野山の詳しい関係は霊宝館「よもやま記」をご覧ください。

別殿(べつでん)

別殿べつでん

昭和9年(1934年)、弘法大師御入定(ごにゅうじょう)1100年・御遠忌大法会の際に建てられた桃山様式の建築で、昭和58年までは一般信徒の休憩所として使用されていました。
この大広間は以前まで宗団・本山の主要会議の際に使われた建物で、南北に長く西側が庭に面した方形の平面で、西・東両側に各四つの部屋が並んでいます。襖絵は守屋多々志画伯の作で、西側には花の間の連続で四季の花鳥が描かれ、東側には弘法大師入唐から高野山草創までの風景が描かれています。

新別殿(しんべつでん)

新別殿しんべつでん

昭和59年(1984年)、弘法大師御入定・1150年御遠忌大法会の際、大勢の参詣者への接待所として新設されました。鉄筋コンクリート造りですが、本山の荘厳に合わせて入母屋の荘重なもので、91畳と78畳の二間からなっており、仕切りを外せば169畳の大広間に早変わりすることができます。
平素は参拝者の休憩所としてお茶の接待をさせていただいており、僧侶の法話も随時行われています。

蟠龍庭(ばんりゅうてい)

蟠龍庭ばんりゅうてい

新別殿と同じく、弘法大師御入定1150年・御遠忌大法会の際に造園されました。2,340平方メートルの石庭は、国内で最大級を誇っています。
この石庭では、雲海の中で向かって左に雄、向かって右に雌の一対の龍が向かい合い、奥殿を守っているように表現されています。
龍を表す石は、お大師さまご誕生の地である四国の花崗岩が、雲海を表す白川砂は京都のものが使われています。

奥殿[非公開](おくでん)

奥殿[非公開]おくでん

この建物は本山の貴賓室で、昭和9年(1934年)の弘法大師御入定・1100年御遠忌の際に建てられました。もともとこの地は木食応其上人(もくじきおうごしょうにん)の興山寺(こうざんじ)跡で、奥殿、別殿が建立されるまでは高野山大学、中学がありました。
襖絵は石崎光瑤(いしざきこうよう)画伯の大作で「雪山花信」の題によりヒマラヤとヒマラヤシャクナゲの風景が描かれています。残念なことに、画伯は完成途上に亡くなられたため奥殿裏の襖絵などは描かれず、一部の襖絵は未完成のままとなり、現在では石崎光瑤画伯の最後の遺作となってしまいました。

書院と真松庵(しんしょいんとしんまつあん)

新書院と真松庵しんしょいんとしんまつあん

蟠龍庭の一隅にある茶室は、昭和40年(1965年)の高野山開創1150年記念法会の際、松下幸之助氏より寄贈されたもので、前総理大臣佐藤栄作氏により「真松庵」と名付けられました。部屋数は8畳、6畳、4畳半の三間と水屋で本格的な茶室造りとなっています。
また、この建物は昭和46年(1971年)には黒潮国体の際に昭和天皇皇后両陛下が、平成15年(2003年)には地方事情ご視察のために紀宮清子(さやこ)内親王殿下(当時)がご宿泊なされました。

阿字観道場(あじかんどうじょう)

阿字観道場あじかんどうじょう

阿字観とは真言密教における瞑想法で、仏との一体をはかるものであります。
阿字観道場は金剛峯寺第401世座主・中井龍瑞(なかいりゅうずい)大僧正の発願と多大な寄進により、昭和42年(1967年)に建立されました。
現在では「阿字観教室」という講座が開講されており、多くの方々がこの道場で実修を重ねられています。
※阿字観にご興味がございます方は阿字観のページ

書院上段の間(やなぎのま)

書院上段の間しょいんじょうだんのま

以前は天皇、上皇が登山された際の応接間として使用された所で、現在は高野山の重要な儀式に使用されています。
この上段の間には上々段の間と装束の間があり、壁は総金箔押しであり、天井は折上式格天井(おりあげしきごうてんじょう)の書院造りの様式になっています。上段右側にある小さな房の着いた襖は「武者隠し」といい、襖の向こうには一室の部屋があります。

中庭(なかにわ)

中庭なかにわ

上段の間の前にある庭は江戸期に作られたと伝えられ、当時は池の周りに高野六木(こうやろくぼく)(杉・檜・松・槇(まき)・栂・樅)がそびえ立っていたそうです。馬酔木(あせび)も石楠花(しゃくなげ)の花も見られ、自然の素朴さが心を和ませてくれます。
春の中旬より石楠花の花が赤や白色に咲き乱れ、梅雨近くになれば天然記念物のモリアオガエルの卵が池の周囲に産み付けられます。秋になれば紅葉に彩つき、やがて冬には一面銀世界へと変っていきます。四季折々の風景が眺められる庭園です。

奥書院(おくしょいん)

奥書院おくしょいん

以前は皇族方のご休憩所として使用された所で、現在はもっぱら儀式に使用されています。防寒用として座敷内に囲炉裏があり、冬は薪をたいて暖をとりました。
襖の絵は、雪舟様として名高い雲谷等益(うんこくとうえき 1590年~1644年)と、その息子の雲谷等爾(うんこくとうじ 1615年~1671年)の筆によるものと伝えられています。この場所は、上段の間と共に昔は高野山最高のお部屋でした。

稚児の間(ちごのま)

稚児の間ちごのま

このお部屋は、先の上段の間と結ばれている「武者隠し」の間で、天皇に随行された人が不寝番をしていた部屋です。後には旧伯爵副島家より伝承された地蔵菩薩を奉安するようになりました。襖の絵は狩野探斎の筆と伝えられています。
※地蔵菩薩の詳しい説明は霊宝館「よもやま記」をご覧ください。

土室(つちむろ)

土室つちむろ

この部屋は囲炉裏の間で、土室と呼ばれています。土室とは「土を塗り固めて作った部屋」という意味です。高野山はご存じのように、冬場は非常に厳しい土地です。暖をとるための工夫として土壁で囲んだ部屋の中に囲炉裏を設け、できるだけ保温効果を高め、風寒(ふうかん)をしのぎました。
囲炉裏は天井まで4本の柱と壁が立ち、煙を天井から屋根の外に抜くようにできています。火袋には小棚が設けられており、弁財天さまをおまつりしています。ただし、その由来などについては伝わっていません。

台所(だいどころ)

台所だいどころ

江戸期以降、実際に大勢の僧侶の食事を賄ってきた場所です。柱や梁も煤で真っ黒になっています。水飲み場は湧き水を高野槇の水槽に溜め、大きな「かまど」は現在も使われます。炭をおこす場所には防火対策として大きな煙突が配置されています。 天井からつり下ろした台には食物が保存されていました。天井からつることで風通しをよくし、さらに紙を垂らすことによってネズミの侵入を防いでいました。
一つの釜で約七斗(98キログラム)のご飯を炊くことができる大釜が三基並んでいます。三つで一度に二石(約2,000人分)のご飯を炊いたものです。昭和50年代まで、年末の餅つきの際に使われていました。二石釜の真上には行灯が釣られ、正面には台所の神様である三宝荒神をおまつりしています。